Décembre, 2023
私は、アンヌのカフェでの仕事に少しずつ慣れていった。最初の印象と変わらず、アンヌは明るく気さくで親しみやすく、時に言葉尻はつっけんどんだが心根の優しい人だった。そして極めてオープンなマインドの持ち主で、アジア人である私にも一切の差別をしなかった。
歩く区画によっては何となく不穏で冷涼な空気を感じる瞬間が時折あるものの、ニースは基本的に穏やかで朗らかな街だった。十二月になると温暖な南仏も流石に冬の匂いが漂い始めて、カフェではヴァン・ショーがよく出るようになった。
日本人のワーキングホリデー、特にヨーロッパとなるとEU圏内の移動のしやすさを利用してあちこちに旅行を楽しむ人も多いようだが、私はこのニースの街での暮らしだけで当分は満足であるような気がした。酷い円安・ユーロ高もあってそれほど懐に余裕があるわけでもないというのも理由のひとつではあった。フランス国内の他の街に行ってみることも考えたが、まあいつかそのうちで良いか、と思った。とにかく今はこの生活に慣れること、なるべく街に受け容れられる努力をすることが重要なのだ。
ある時モニクが、「ミジュは香水付けないの?」と尋ねてきた。
「付けてるよ。でもすごく軽い香りのものを少ししか付けてないから、あまり匂いがしないのかも。私、臭い?」
「ううん、全然。臭くないよ。それどころかミジュって、ほとんど匂いがしないの。フランス人って香水をたくさん振る人がすごく多いから、珍しい感じがして。だからミジュのそういうところも素敵だけど、よかったら香水をプレゼントしてもいい? あたし、あなたに似合う香水を選んでみたいな」
私は彼女の申し出を嬉しく受け止めた。同時に欧米の人間が、「日本人は無臭だ」とよく言う、というどこかで聞いたような話をふと思い出した。私たちはセフォラの香水コーナーに行き、モニクは並んでいる香水瓶を片っ端からムエットに振りかけては慎重な目つきで吟味していた。私は元々日本にいた頃からあまり香水にこだわりが無く、唯一持って来たのは碧がくれた日本製のブランドのインセンスという名前のものだった。
しばらく何も言わず、顎に手を当てたり私の顔とムエットを交互に見つめたりしたあと、モニクは私の腕を取ってニットの袖をぐいと肘まで捲り、その内側に一瓶のテスターを吹き掛けた。
「どう?」
私は自分の腕に鼻を近づけ、その香りを嗅いでみた。最初に感じたのはジャスミンの花の、軽やかだけれどロマンチックな優しいまろさだった。彼女が持っている瓶に書かれているブランド名は確か日本でも有名なもので、聞いたことがあると思ったけれど案の定あまり自信は無かった。
「ジャスミンの香りがする」
「そう、ジャスミンはあなたに似合うと思ったんだ。この香水は時間が経つにつれて香りが変わっていくのよ。しばらくすると、きっとムスクが香ってくる。そして最後には、アイリスとバニラの甘い香りになるの。物静かで感情の起伏が小さくって淡白そうに見えるのに、意外と情熱的なところもあるあなたにぴったりだよ」
「情熱的なところ?」
「ベッドにいる時とか」
モニクが悪戯っぽく笑いながら声を潜めて囁くので、思わず吹き出してしまった。ともかくも、彼女が選んでくれた香水は素直に素敵だと思った。彼女はそれを買ってくれて、安い買い物ではないので私が遠慮する素振りを見せると、「少し早いノエルのプレゼントだよ」と言った。
何かお返しをしたいと言うと、モニクは「じゃあ今度、日本の料理を作ってご馳走してよ。あなたの住んでるアパルトマンにも遊びに行ってみたいし。寿司や天ぷらなんて言わないよ、あれって高級料理なんでしょ? それより、たとえばあなたが日本にいた時に普段の夕食で作ってたような料理が食べたいな」と答えた。
「そんなことでいいの? 金額が釣り合わないと思うんだけど」
「ちょっと、何のための円安だと思ってるの?」
あんまりな言い草に私はまた笑った。要するにこんな時にお金のことなんて気にするなという、彼女なりのユニークな気遣いなのだと理解した。私は彼女のプレゼント、フランス語で言うところのカドー、を有り難く頂戴し、それまで使っていたインセンスの瓶は抽斗に仕舞って、モニクの選んだ香水を毎日付けるようになった。数日後に抱き合った時、彼女は私の首筋の匂いを嗅いで「うん、やっぱりよく似合ってる」と満足そうに笑った。
ある日の夕方、店仕舞いが近くなった頃、マキが一人でふらりとカフェに現れた。アンヌは「今日の最後のお客だからね」と冗談めかして、しかしおそらく八割くらいは本気で、そう言った。フランス人は仕事の終わり時間には厳しいらしい。
「ダブルのエスプレッソひとつ、お願い」
彼は意識的にか無意識的にか、私の顔を見てフランス語で注文をした。ウィ、ムシューと応えてエスプレッソマシンでダブルのボタンを押す。トラムの線路が見える窓際のテーブルにコーヒーを持って行った時、頬杖を突いた彼は宙を見てぼうっとしているような、もっとはっきりと言うならば憔悴しているような、そんな様子に見えた。
「マキ? どうかしたの?」
私が日本語で問い掛けると、彼はぱっとこちらを振り向き、それから私の手のカップを見て「ああ、ありがとう」と日本語で応えた。
「なんか、疲れてる? 顔色悪いよ」
「うん、ちょっと……そうだね、疲れてるのかも」
「何かあったの?」
流れで尋ねてみると途端に彼の表情が曇ったので、「いや、言いにくかったらいいよ、言わなくても」とほぼ反射的に取り繕った。しかしマキはすぐに私の顔を真っすぐ見上げた。
「ミズキ、仕事終わったら時間ある? 少し話がしたくて。今きっと僕は、僕の話を聞いてくれる誰かを必要としてるんだ」
静かな、しかし切実な瞳でそう言った彼の日本語は相変わらず流暢で訛りもほとんどなかったけれど、言い回しの微かな硬さには日本語を母語としない人のそれを感じさせた。
「もちろん。あ、でも、掃除したりしなきゃいけないから、終わるまで待ってもらえるようにアンヌに頼んでみるね」
「ありがとう」
スタッフはもう皆上がってしまって、残っているのは私とアンヌ、それに常連の男性客がひとりだけだった。アンヌにマキのことを伝えると、「ああ、あんたの友達なんだね。構わないよ」と、彼が店内に残ることを簡素に了承してくれた。
店を出たあと、どちらからともなくジャン・メトサン通りを南のほうへ、海辺のほうへと向かってゆっくりと歩き出した。私は日本から持って来たコートを着て、マキは毛糸のスカーフを首に巻いていた。夜の空気はやはりしんと冷たかった。私はマキが何か言葉を発するのをただ静かに待っていて、彼はしばらくの間何も言わなかったが、やがて唐突に口を開いた。
「恋人が、死んだんだ。病気だった。カンセール、日本語で何て言うんだっけ」
「……癌?」
「そう、それ」
「いつ?」
「一昨日。今日、お葬式だったんだ。でも僕は行けなかった。黒い服を着て、会場の前まで行ったけど、中に入る勇気が無かった。僕には、そうする資格が無かったんだ」
「なんで? 恋人なのに」
「彼には、妻がいたから。誰も、僕と彼が愛し合っていることを知らなかった」
数瞬かける言葉を失って、私は黙ってしまった。色々なこと、想像が脳裏を駆け巡った。どんな思いでマキが、恋人の死を悟り迎えたのか。そして、どんな思いで葬儀場の前まで足を運んだのか。
「マキは、知ってたの? 相手に奥さん……妻がいること」
「うん、知ってた。だから、とても親しい二、三人の友達にしかこのことは話してなかったし、彼とも隠れて会ってた。間違えても妻のイレーヌに会わないように。モニクも知ってたよ」
「そう、なんだね」
「彼が癌になった……癌が見つかった時も、彼自身から聞いた。見つかるのが遅かったんだ。もう間に合わないって。もう長くないって。だからずっと、覚悟していた。半年くらいかな。少しずつ弱っていって、苦しむ彼を見ていた。……やっと、解放されたんだと思う。五十二歳だった」
その数字は、私より一歳だけ年上だと言っていた彼の年齢からはかなり離れているように私には感じられた。けれども、マキがその男性、二日前に癌で亡くなった男性のことを本当に愛していたのだということは察せられた。葬式にも行くことができないほど誰も彼らの関係を知らなかったのならば、その男は財産のひとつ遺すことも、たとえば遺言状などでマキの名を出すことも無かっただろう。
「訊いてもいいかな」
「うん、なんでも。君なら」
「彼は、ゲイだったの?」
「そうだよ。少なくとも僕にはそう言ってたし、僕もそれは嘘じゃないと思う。本当はゲイだけど、どうしても結婚せざるを得なくて、セクシュアリテを隠して結婚したんだ、って」
「……そっか。苦しかったね。マキも、彼も」
「……うん。そう思うよ」
私たちはまだ薄明るい、人気のそれほど多くないマセナ広場を通り過ぎ、椰子の木が並ぶ道を渡り、海沿いの通りまでやって来た。半月上に弧を描く海岸線と、それに沿うように光る街灯やホテルや店々の光が橙に、群れを成すように灯っていた。風はあまり無く海は静かで、波の音は微かだった。海岸通りを、私とマキは歩くともなく歩み、少しずつ暗くなっていく海の色を眺めた。
「パリに行こうと思うんだ」
不意に、マキが水平線に目を向けたまま呟いた。
「パリ? 引っ越すってこと?」
「ううん、一日か二日くらい。マチアス……彼が元気だった頃、一緒に行ったんだ。セーヌの左岸が思い出の場所。彼はもういないけど、またあそこを歩きたい。ミズキ、もしよかったら一緒に来ない?」
「え? 私でいいの?」
「うん。独りで行くのは、あんまりにも辛い気がして。君なら、良いかなと」
パリには、いずれ足を運ぼうと思っていた。このフランスという国に来てから約三ヶ月弱の間、首都にさえ訪れていなかった。日系とは言えフランス育ちであるマキと一緒に行けるのであれば私にとっても心強くこの上無い機会であるのは当然だが、それ以上に今、彼の誘い、あるいは要望か、を受け容れるべきだと思った。ひとときでも長く彼の傍らを歩くべきだと、強く感じたのだ。
「行くよ。いつ?」
「できれば明日の朝、TGVに乗りたいな。明後日にはニースに帰って来よう。そんなに長く居る必要は無いんだ、すぐに済むから。カフェの仕事、休める?」
「わかんないけど、たぶん大丈夫だと思う。アンヌに電話する」
「ありがとう。君が来てくれること、嬉しいよ」
そう言ってその日ようやく、マキは控えめな笑顔を見せた。薄暗く冷たい空気の中で、普段から白い彼の顔が余計に蒼白く見えた。
翌日の朝早く、私はアンヌに電話を掛けてからアパルトマンを出た。冬のパリはきっとニースよりもずっと寒いだろうから、一番暖かいコートを着込み、スカーフを旅行鞄に詰め込んだ。電話口の彼女は機嫌が良いという感じではなくぶっきらぼうな声色ではあったものの、突然の二日間の暇乞いをあっさりと了承してくれた。
ニース駅で待ち合わせたマキは、再び私に「ありがとう」と言った。私と同じように暖かそうな紺色のコートを着て、昨日よりはすっきりとした顔付きをしているように見えた。既に買っておいてくれたらしい二枚のTGVの切符のうち一枚を私に手渡した。
早い時刻の列車だからか、乗客はそれほど多くはなかった。私たちは並んで座席に座り、時々ぽつぽつと他愛の無い会話をしながら、移り変わる窓の外の風景を見るともなく眺めたりして穏やかに移動を続けた。空は乳白色の雲で満たされて寒々しかったが、時折顕れる晴れ間から太陽の光が覗いた。
一、二時間ほど経った頃、どことなく改まったような声でマキが「君に、僕について話してもいいかな」と言った。もちろん、と私は応えた。彼は静かな口調で語り始めた。
「僕の顔を見れば想像が付くと思うけど、僕は日本人とフランス人のミックスなんだ。日本語で言うと、ハーフっていうやつかな。父が日本人で、母がフランス人。実は、小さい頃は日本に住んでたんだよ。六歳……いや、七歳までかな。東京のインターナショナルスクールに通ってた。でも両親が離婚して、父は日本に残って、母は僕を連れて帰国したんだ。それ以来、父とは会っていない。父はフランス文学の研究者だった。ミズキは大学でフランス文学を専攻してたって言ってたけど、ひょっとして知ってるかな」
マキは彼の父の名前を教えてくれたけれど、私はその人のことを知らなかった。私の大学の教員ではないようだった。でも日本のフランス文学研究の界隈は狭いようだから、私の先生の誰かはきっと知っていると思う、と付け加えた。彼の父はマラルメを専門に研究していたということだった。
「僕はリヨンの母の実家に、祖父母と住むことになった。穏やかな生活だったと思う。そこで数年暮らして、僕が十三歳の時に母が再婚することになったんだ。新しい父はセネガル人だった。それから僕は母と、新しい父と三人でニースに来た。再婚と言ってもPACSっていう、何て言うのかな……正式な結婚ではない制度なんだけどね」
「聞いたことある。日本には似たようなものでパートナーシップ制度っていうのがあるけど、それは同性の人たちのための制度だから、PACSとはちょっと違うかな」
「そうなんだ。PACSは同性同士でも使えるよ。でも、日本は同性婚はできないんだよね?」
「残念ながらね。それで、ニースに引っ越してからは? どんな生活だった?」
「そうだな……リヨンにいた頃よりは、少し貧しくなったと思う。祖父母はそれなりに裕福だったんだけど、両親の収入はそんなに多くなかったから。父はパリやフランスの他の街に出稼ぎに行くことが多くなって、家にいる時間が少なかったから、僕と父はあまり仲良くはなれなかった。良い人ではあるんだけどね。ただ、他人同士はできるだけ長い時間を一緒に過ごすことで解り合うものだろう?」
「確かにね」
「それに、父は何と言うか……僕のセクシュアリテを理解してくれなさそうだと、子どもなりに感じたんだ。僕はその頃にはもう、自分がゲイだとはっきり自覚していた。リセの頃には、同じ学校の生徒と関係を持ったこともあったよ。もちろん男のね」
彼の口からリセという単語を聞いた時、私は不意に翠のことを思い返した。でもあの頃惹かれ合っていた私たちは、自分たちをレズビアンだと明確に定義していただろうか? 少なくとも翠と、そのことについて深く話し合ったことは無かったように思う。私自身が女性にしか恋愛的・性的に惹かれないとはっきり認めることができたのは高校を卒業して、翠と別れ別れになったあとのことだった。翠のほうはどうだったのか、今はわからない。
「リセを出たあと、ユニベルシテ……大学、には行かなかった。早く働いて両親にお金を渡すほうが良いと思ったし、それに大学で勉強したいとも思わなかったから。幾つかのレストランやカフェやバーで働いて、最終的に今の店に落ち着いた。たいした知識は無いけれど音楽が好きだから、いつも音楽が流れている場所で働けるのは気に入ってる。給料も悪くない。マチアスとは店で会ったんだ。彼は、僕がゲイだとすぐにわかったって言ってた。彼が女性と結婚していることは、何度かセックスをした頃に知った。その時すぐに別れることもできたけれど、僕はそうしなかった。既に彼にとても惹かれていたし、何より……彼がすごく、淋しそうに見えたから」
そして僕は、そんな淋しそうな彼を愛したんだ。
そう言ったマキの、細く尖った顎の横顔が私には淋しそうに見えた。それが痛ましくて、しかし一方でひどく美しくもあった。マキ越しに車窓から見える空は相変わらず曇天だったが、正午へと向けて少しずつ明るくなりつつあった。
「日本に住んでた頃のこと、覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ。家ではほとんどフランス語で、学校は英語で話していたから、日本語はあまり使わなかったけど。それでも父……つまり血が繋がった父、は僕に日本の絵本を読ませてくれたり日本のアニメを見せてくれたり、少しずつ日本語を教えたりもしてくれた。フランス語の本も彼はたくさん持っていたから、それも読ませてくれた。彼とはいろんな話をした。それに、東京は面白い街だと思ったよ。子ども心に、だけどね」
「今も、本当のお父さんに会いたいと思う?」
「そうだね……」マキは少し考えるように小首を傾げた。「会えるなら会いたいと思う。でもまず、僕が日本に行かなきゃならないね。母は良い顔をしないと思うけど。大学の先生だから、きっと簡単に探せるだろうね」
「うん。研究者のデータベースがあるから、連絡先もすぐに見つかるよ。何なら、私の大学時代の教授に訊けば知ってる人がいると思うし」
「じゃあ、ミズキが日本に帰ったら僕も日本に行ってみようかな」
「いいね。その時は東京を案内するよ。きっと、マキが住んでた頃とは変わってるところも多いと思うけど」
「街っていうのは変わるものさ。生きているからね」
「ニースもそう?」
「もちろん。パリもね」
車内でマキが、エアビーで今夜泊まるところを予約してくれた。写真を見る限りそれなりに清潔そうな、アパルトマンの一室だった。五時間と少しをかけて、パリには昼過ぎにようやく着いた。お腹が空いたから何か食べようと言って、どこか手頃なカフェかレストランを探すことにした。駅に降り立って早々にマキは、「ここではフランス語を話すことにしよう」とフランス語で言った。
「わかった。でも、どうして?」
「アジア人観光客だと思われると、あまり良くないから」
「マキが一緒でも?」
「僕だって、ここではアジア人として認識されるさ。顔を見ればわかる」
私は彼に従うことにした。思った通りパリは寒く、冷たい空気が肌を刺し、厚く重たそうな雲から細かい雪がちらちらと静かに降り落ちていた。私は鞄に入れたままだったスカーフを引っ張り出し、柔らかいそれを首から顎を覆うようにしっかりと巻き付けた。
「パリは、もう雪が降っているんだね」
「たぶんだけど、今年は随分早いんじゃないかな。一月や二月になるとよく降るよ」
「マチアスと来た時は、どの季節だったの?」
「夏だった。残念なことにね。つまり、今とは真逆なんだ。でも構わない、夏にもまた来ればいいよ。きっと木々が鮮やかな緑色をしていて、あの時と同じ匂いがするだろう」
「そうだね」
駅を出てすぐ、人々が思い浮かべるであろう「パリの街角」そのものの光景になった。人々は大抵忙しげに、ほんの一割か二割かの人はのんびりと、石灰色とクリーム色の街の中を縦横に歩いていた。そしてほとんどの人は、どこか明確な目的地を持っているように見えた。私たちにはそれが無かった。
軽い食事が摂れそうなカフェはいくらでもあった。マキが「ここにしようか」と言った店に、異論も無く入った。しばらく待ってからかなり仏頂面の店員が来て、私はクロックムッシュとサラダとカフェ・クレムを、マキはサンドウィッチとオムレツ、それにダブルのエスプレッソを注文した。
「マチアスも、ニースに住んでいたの?」
「そうだよ。でも元々彼はパリジャンで、若い頃まではパリに住んでいたんだ。結婚してからコート・ダジュールに移り住んだ。僕が彼と来たのは三……いや、四年前だったかな。そう、COVIDの前だったからね。彼は妻に、仕事で人に会うためだと嘘を吐いた。二人で過ごしたのはほんの一週間ほどだったよ。でも実際のところ、とても楽しくて幸福な時間だった」
死んだ恋人のことを淡々と語るマキが、目には見えない深い悲しみの中に佇んでいることはマチアスを知らない私にもわかった。心から愛する人を喪うこと、その最期におそらくは立ち会えなかったであろうこと、棺で眠る顔さえ見られなかったことがどれだけの痛みを伴うのか、私には想像することはできても、はっきりと理解することはできなかった。私にはそんな経験が無かったし、あったとしても彼が今抱えている感情は彼だけのものだろうから。
食事のあと、私たちは歩道も車道もある広い橋を渡り、セーヌ川を右岸から左岸へと越えた。葉の枯れ落ちた街路樹が並ぶ川沿いの道を、ノートル・ダムのほうへ向かってゆっくりと歩いた。
「ああ、そうだ、ちょうどここを歩いていたんだ。変だよね、なんでもないただの路なのに、そのイマージュがやけに頭に焼き付いてる」
「ううん、変じゃないよ。そういうことって私も経験がある」
そう、たとえば高校の帰りに翠と一緒にコンビニに寄って肉饅を食べた冬の夕暮れのこととか、碧の部屋で昼過ぎに起きた彼女がしょぼしょぼした目で鏡の前に立って髪を梳いていたこととか。
不意に、前から歩いて来た見知らぬ男が、私たちを見て大声で何ごとか怒鳴った。どちらかと言えば背の高い、中年の白人の男だった。ごく一般的な身なりをしていて、どこを歩いていても不思議は無い、至って普通の人のようだった。あまりに突然で、しかもかなり早口だったので、私は彼が何を言ったのかまったく聞き取ることができなかった。ただ何か怒っていると言うのか敵意があると言うのか、良いことを言われたわけではないであろうことは察した。男はそのまま足を止めずに擦れ違って立ち去り、私は振り向いて呆然とその背中を見送った。
「彼、今なんて言ったの? 全然わからなかった」
「……あまり言いたくないな。訳したくもない」
「何か、人種差別的なこと?」
「そういう人間もいるってことだよ。ただ街を歩いているだけ、ただ僕らがこの国に生きているだけでも何か文句を言わなければ気が済まないような連中がね。議論したり、解り合おうとしたところで無駄なんだ」
僕はもう、そのことをよく知っている。
マキは私の質問に、明確にウィあるいはノンとは答えなかった。彼は、最後に一言だけ日本語に切り替えてそう付け加えた。その一言に私は、彼がどのようにこの国で生き延びてきたのかをほんの一瞬だけ垣間見たように思えた。そしてそれは、私が思っていたよりもずっと多くの困難を伴うものだったのかもしれない、と。私は今この国で紛れもなく異邦人だけれど、ビザの期限が来て日本に、東京に帰ればそこが故郷になる。しかし彼はきっと、フランスにいても日本にいたとしても自らを異物と感じるのだ。たとえばマルグリット・デュラスのように。
「ここが、ジャルダン・ティノ・ロッシ。あの夏、僕はここで彼と話をした。それほどひどく暑くはなく、心地良い晴れの日だった」
舗道をしばらく歩いた頃、マキが立ち止まってそう言った。確かにそこはセーヌ川に向かって、公園のようにぽっかりと開けた空間になっていた。街灯や植え込みがあって、特段ベンチらしきものは見当たらないものの、綺麗な平らに整えられた石段にはきっと若者たちが座り込んで会話や議論に興じていることもあるのだろうなと、その光景が目に浮かぶような気がした。ただ今は寒く雪も降っているせいか、人気はほとんど無かった。
私たちはセーヌの川面に近寄って、ただその穏やかな流れを眺めた。ちょうど、しばしば私たちやモニクがニースで、海を眺めている時のように。けれども当然ながらその水の色はニースの海とはまったく違っていて、よく見ると緑っぽく少々濁っており、そこへ白い雪の結晶がちらちらと舞い降りるさまはなんだか寂しげだった。
私は隣で静かに立つ、マキの横顔をそっと見上げた。その表情は凪いでいて、マチアスのことを回想しているようにも見えたし、ただ呆然としているようにも見えた。彼はしばらく私の視線に気がついていないように川とその向こうの右岸を見つめていたが、ふとこちらに顔を向け、にこりと小さく唇だけで笑った。
「マチアスのどんなところが好きだったか、訊いても構わない?」
「もちろん。……と答えたけど、急に言われると説明するのは難しいね。そうだな……どんなところだろう。彼はお金持ちだったから僕に色々なもの、服だとか香水だとか、そういったものを買い与えたがったけれど、僕は本当のところ、そんなものはどうでもよかった。たとえば夜を一緒に過ごして、その翌朝に僕が目が覚めると、カフェを飲みながら窓の外を淋しそうに見つめている時の横顔とか。頬や額に刻まれた皺だとか。そういうものが、今は想い出されるよ」
「でも、彼に貰ったものは、今ならきっとそれ自体が愛おしく感じられるんじゃない?」
「そうだね。確かにそうかもしれない」
「私、昔の恋人に革の財布を貰ったことがあるの。私の誕生日にね。深い赤色の財布。今考えればそれほど高価なものではなかったけれど、その時私たちは高校生だったから、彼女にとってはきっと思い切った買い物だったと思う。彼女はマチアスと違って今もきっと生きているけれど、別れてしまってからは会ってない。その財布は日本にある私の家の抽斗の隅に仕舞ってあるんだけど、抽斗を開けた時にそれを見ると、彼女のことを想い出すんだ」
「悲しくなる?」
「悲しくはないかな。ただ少し、なんて言うのか……懐かしさ、みたいなものを感じるよ」
「君の誕生日って、いつ?」
「三月十一日。何の日か、あなたならわかる?」
「……うん」
「彼女はね、あの津波でお父さんと、弟を喪ったの。お母さんと彼女はなんとか助かった。そんな経験をしたのに、きっと彼女は毎年その日には亡くした家族のことを想い出していたはずなのに、私の誕生日を笑顔で祝ってくれた」
「そうか」
マキは簡素に相槌を打って、黙った。しばらくの沈黙のあと、彼はもう一度口を開いた。
「三月になったら、君の誕生日パーティーをしよう。モニクも一緒に。それから君の、他の友達も呼ぶといい。誰かが大勢死んだ日にも、世界のどこかでは必ず誰かが生まれているんだ」
「そうだね。ありがとう」
二〇一九年に火災で大部分が崩落・焼失したあと修復工事を続けているノートル・ダム大聖堂は、遠巻きに流し見をした。さらにその先で見覚えのある橋を見た時、ああ、これがあのポン・ヌフか、と思った。私とマキは特段、観光地らしい場所を巡ろうとするでもなく、ただセーヌ川沿いをゆっくりと並んで歩き続けた。今はそれだけでじゅうぶんだと確信していた。時々話をし、時々黙っていた。そのうち歩き疲れて、また適当なカフェに入り、エスプレッソを飲んだ。そしてまた歩いた。いずれエッフェル塔まで辿り着いてしまい、その塔を下から見上げた。額に、頬に、雪の欠片が落ちてきて冷たさを感じた。流石に周辺やシャン・ド・マルスは、ある程度の観光客で賑わっていた。
段々と日が暮れて、瞬くうちに暗くなってゆき、街灯が路地を照らし始めた。相変わらず雲が立ち込めているせいで、空の色はあまり見えず、ただ影だけがその気配を増していくようだった。私たちはモノプリでサンドウィッチや惣菜を幾つか買い、赤ワインのボトルも一本買った。フランスはワインが安い。
エアビーで予約したアパルトマンの部屋にはキッチンとダイニングとバスルームの他にベッドルームがひとつしか無かったが、ベッドはそれなりにしっかりとした造りの二段ベッドだった。マキは私に、「どっちが良い?」と尋ねた。私は少し考えて、「上」と答えた。
「子どもの頃、お姉ちゃんと二段ベッドに寝てたの。お姉ちゃんは高いところで寝るのが嫌だって言って、私が上に寝てた。なんか、それを思い出して」
「へえ、君、お姉さんがいたんだ」
「うん。お姉ちゃんと、弟もいる。お姉ちゃんは二歳上。もう結婚して、実家は出て行っちゃった。弟は大学生」
「仲は良いの?」
「さあ、普通じゃないかな。昔はしょっちゅう喧嘩したけど、今はみんなそれなりに大人だから、そういうのも無くなったし」
「そうか。僕は兄弟や姉妹がいないから、どういう感覚なのかわからないな。でもきっと、君のお姉さんや弟のような存在がいれば、普段は何とも感じていなくても、何かあった時に助けになってくれるんだろうね」
「ねえ、マキってなんでそんなにこう時々……なんて言うか、達観したことを言うの?」
思わず私がそう言うと、マキはダイニングテーブルでワインの栓を抜こうとしながら首を傾げて私を見た。
「タッカン? って、どういう意味?」
「ええと……フランス語でなんて言うんだろう。フィロソフィック、とも違う気がするし……。『セ・ラ・ヴィ』みたいな感じ?」
ポン、と軽い音でコルクが抜けたと同時に、マキは噴き出すように苦笑した。
「なるほど、なんとなくわかった気がする。あとで辞書を引いておくけど。さあ、どうしてだろうね? そういう性格なんじゃないかな。たぶん僕は、いろんなことを諦めてるんだ。人生において。そうせざるを得ないような場面が、今までに何度もあったから」
キッチンの戸棚の中にはワイングラスを含む食器類も揃っていて、マキは洗ったふたつのそれにワインを注いだ。私はモノプリで買ったキッシュやプロシュートやチーズ、それにサンドウィッチを白と青の大きな皿ふたつに分けて乗せた。
「君がさっき言った、赤い財布をくれた恋人って、前に話してた煙草を吸ってたっていう人?」
サンドウィッチに一口噛み付いて咀嚼してから、マキがそう尋ねた。
「ううん、違う人。赤い財布の彼女は、高校を卒業したあと別れちゃったの。煙草を吸ってたのは、フランスに来る前に働いてた会社の同僚だった」
「その人は、どんな人だった? 何か彼女について話してよ。思い出とか」
「どんな人……そうだなぁ。面白い子だったよ。お酒弱い癖にすぐ調子に乗って飲み過ぎて酔っ払っちゃうの。仕事はできるし頭の良い子なのに、部屋はぐちゃぐちゃで」
「ぐちゃぐちゃって、片付けられないってこと?」
「うん。すぐ掃除サボるから。やろうと思えばできるのにね。一度、キッチンの排水溝にコバエが大量に卵産み付けたって大騒ぎして電話掛けてきて。仕方ないから家に行ってあげて、熱湯で殺してから、ふたりでキャーキャー言いながら洗ったよ」
マキはアッハッハと可笑しそうに、軽やかに笑った。
「その二人は、なんて名前だった?」
「財布の子が翠。コバエの子が碧」
「ミドリとアオ? 面白いね」
「そう、不思議な偶然だよね。私が今までちゃんと付き合ったのは、そのふたりだけ」
「どうして別れたのか、訊いてもいい?」
「翠はね、進学した大学が離れちゃって。私は東京で、彼女は京都だったの。別れるつもりじゃなかったんだけど、いつの間にか疎遠になっちゃって。疎遠ってわかる?」
確認するように尋ねるとマキは首を傾げて微妙な顔をしたので、「だんだん連絡を取らなくなっちゃって、心の距離が遠くなっちゃうこと」と説明した。
「碧はね、会社の人たちに付き合ってることがバレちゃったんだ。そしたら、みんな私たちのこと噂したり、陰口言ったり、揶揄ったりするようになって。無視して堂々としてればよかったのかもしれないけど、私にはそれができなかった。会社を辞めて、私のほうから連絡を絶っちゃった」
「どうして? 君が会社を辞めたなら、もう嫌な思いをすることは無いだろ。付き合い続けても良かったんじゃないか? そもそも、アオさんは他に誰か相手がいたの?」
「ううん。いなかったよ」
「じゃあ、どうしてバレたらまずかったんだろう」
「日本では同性愛はまだ、『普通じゃない』って思われるから。いや、違うかな。もしかしたらそういうことに寛容な会社もあると思うけど、私のいた会社はそうじゃなかった。会社を辞めたならそれで済む話って言われれば、それはそうなんだけど……なんでかな、その時の私はとにかく逃げたくなっちゃって。それでここに来た」
「アオさんのこと、まだ好き?」
その問いに対して、私は少し答えに窮した。自分でも自分の気持ちが、よくわからないままでいた。私はなぜあの時、彼女から逃げたんだろう。「何か問題があるんですか」と部長に啖呵を切った、碧の強く凛とした声が脳内でまた響く。私が彼女のように、もう少し強ければよかったのかもしれない。どうだろう。それとも彼女だって、強い振りをしていただけだったのだろうか?
「よくわかんない。でも、ずっと忘れられずにいることは確かだね。今も時々思い出して、彼女の写真を見たりするよ。まだ好きなのかなぁ」
「そうかもしれないね」
「私って優柔不断だね。それに臆病なんだと思う。もっとちゃんと碧と、話をすればよかったのかも。なんか、怖かったんだ。きっと」
マキは「そうか」と静かに呟いて、銀のナイフとフォークでキッシュの一欠片を切り取って口に入れた。私もサンドウィッチを齧り、プロシュートを食べた。
「日本に帰ったら、連絡してみたら?」
「別の彼女がもうできてるかもよ」
「そうかもしれないけど、その時はその時で仕方が無いよ。君が後悔してるなら、もう一度話をしてみればいい」
「……それもそうかも、ね」
「君次第だけどね。でも君は、一度ここへ来て自由になったんだから。それにきっと、強くもなった。これからこの国にいる間、もっと強くもなれるだろう」
マキのその言葉がひどく真っすぐに聞こえて、私はどきんとした。人はそんなに簡単に、強くなったりできるものだろうか。
「だって、この国では強くなきゃ生きていけないんだから」
重ねるようにそう言ったマキの表情は、少し皮肉めいても見えるようだった。
マキは今朝、ニースのアパルトマンを出る前にシャワーを浴びたからもういいと言うので、私だけ簡単にシャワーを浴び、寝巻として持って来たスウェットに着替えた。ベッドルームに行くと、マキも少しラフな長袖のカットソーと柔らかそうなパンツに着替えて、下のベッドに座って脚を組んでいた。その表情がやけに儚く、元々線の細い印象の彼がまるで今にも消えそうに見えたので、私は思わずベッドの数歩前で立ち止まってしまった。「大丈夫?」と尋ねようとして、その声は呑み込んだ。私は何も言わず、ゆっくりと彼の隣に腰を下ろした。
「彼を愛してた」
不意に、マキはフランス語でそう言った。そのaimerは半過去形だった。私は日本語で「うん」とだけ応えた。そっと横を見ると、彼の頬が濡れて光っていた。声も出さず、静かに彼は泣いていた。私は尻をずらして身を寄せ、少し高い位置にある彼の肩に手を回してそっと抱いた。マキは身体を少し屈めて私の左肩に額を付けて、片手で私の腰を抱いた。ひく、とごく小さな音で彼の喉が鳴った。
私には彼の痛みを、ただ想像することしかできず、理解することは不可能だった。いつか私が彼や翠のように大切な人を永遠に喪った時、似た感情を覚えることはあるかもしれない。今はただ、異なる体温を寄せ合うことしか私たちにはできなかった。
Mars, 2024
私のフェット・ダニヴェルセールはオディールの家で催されることになった。マキとモニクとで、どうせならなるべく広いところでパーティーをしたいけれど誰の家にしようか、誰の部屋も狭いし、などと話している時にふと、オディールが場所を貸してくれないだろうかと考えついたのだ。
ノートにメモしておいた彼女の自宅の番号に電話を掛けると、あの偏屈婆さんは存外に喜んでくれた。それから「どうして今まで電話の一本も寄越さなかったんだい」と怒り、「あんまり音沙汰が無いもんだからこんな年寄りのことなんか忘れちまったか、あるいは仕事をクビになって野垂れ死んだかと思ったよ」とキツい嫌味を言った。相変わらずだ。
もうすぐ誕生日なんだが、貴女の家を使わせてもらえないだろうか。友達はみんな小さなアパルトマンに住んでいて、ちょうどいい場所が無いから、と打診してみると、「どうしてもっと早く言わないの!」とまた怒られた。
「急いで材料を用意しなくちゃ。ドーブ・ド・ブフにしようか、それともコック・オ・ヴァンのほうが良いかしら。アンタ、牛と鶏ならどっちが好き? ケーキも作らなきゃね。それで、何人来るんだい? ああ、そうそう、料理の準備の時にはアンタも手伝いに来るんだよ。主演女優は、同時に主催でもあるんだからね」
彼女は電話口で勢いよくまくし立てた。とにかく彼女の家で誕生日を祝う会を開くことは異論無く了承してくれたようだが、ここまで準備に前のめりになられると少し申し訳なくなる。日本人の性かもしれない。
「貴女の手を煩わせるつもりは無くて、キッチンとダイニングと、あるいは庭さえ貸してくれたら料理も私や友人たちでやるつもりだったんだけど」
「何言ってんの、家だけ貸してあたしが何もせずに座ってると思う? 準備を手伝ってくれるのはもちろん歓迎だよ。それで、準備には何人が来て、全部で何人を招待するんだい?」
私は友人たちの顔を思い浮かべた。モニク、マキ、アティーファ、サーディク、それにメイ。職場のカフェにも二、三人、親しくしている同僚がいる。アンヌも呼んだら来てくれるだろうか、それとも店や家庭があるから難しいだろうか。モニクやマキがまだ私と会ったことが無い友人を呼びたがることも有り得そうだ。
とにかくそんな調子で、とんとん拍子に話は進んだ。フェットの前準備はモニクとマキが手伝ってくれることになった。アンヌも、店を閉めて金勘定などの細々した仕事を終えてからになるので少し遅くなるかもしれないが行く、と言ってくれた。
三月のニースは、すっかり春の匂いが香りつつあった。青い海辺は相変わらずのこと、街全体が日々ぽかぽかと暖かくなり、朝のマルシェに集う人々も心なしかみな陽気に見えた。
ある日、松嶋翠からアプリを通してメッセージが届いた。彼女とは意図的に連絡を絶ったわけではなかったので不思議でもないことだったが、それにしても十年近く、正確に言うならば約七年ほど、連絡を取っていなかったので驚いた。メッセージは、それなりにまとまった長さの文量があった。
久しぶり、瑞希。元気にしてる?
ずっと連絡してなくてごめんね。
卒業して私が京都に来たあと、母が宮城に戻ったんだ。と言っても最初は気仙沼じゃなく仙台のほうに越したんだけど、今は気仙沼に戻ってる。もちろん、昔の家は流されちゃってもうないんだけどね。新しい家を買ったんだ。中古で、小さいけど庭がある、良い家だよ。
そうすると、大学二年くらいの頃からはもう東京に行く理由がほとんどなくなっちゃって。私自身は卒業したあとそのまま京都で就職して、今も京都に住んでる。瑞希に連絡をすればよかったんだけど、なんだか遠くなっちゃった感じがして、どうしてもできなかった。遠くしたのは私のほうなのにね。
実は、結婚することになったんだ。今、妊娠三ヶ月で、それは先月わかった。相手の彼は大学の同級生で、社会人になってからはいずれ結婚しようって話も出てて、彼のご両親にも会っていたんだけど、私のお腹に赤ちゃんがいることがわかったから、すぐに籍を入れようってことになったの。
出産は十月の予定で、そんな感じだから結婚式のことはまだ考えてないんだけど、いずれやろうと思ってる。きっとそんなに大きくない式になると思うけど。私も彼も、あんまり盛大にするのは好きじゃないから。
もし式が決まったら、瑞希も来てくれるかな?
すごく変なことを言ってるのはわかってる。私にとって瑞希は元彼女なんだから、そんなこと頼むのおかしいよね。瑞希も嫌な気持ちになるかもしれない。それはわかってる。だから、もちろん断ってくれていいし、怒っても構わない。それでも、もし許してくれるなら瑞希にも来てほしいと思ったの。
ねえ、あの頃、私たち楽しかったよね。幸せだったよね。私は本当に、瑞希のことが大好きだったよ。一見そうは見えないのに、本当は誰よりも他者に対する優しい情熱を秘めてるあなたのことが大好きだった。それを表に出すのが苦手なところも、心から愛おしかった。それは本当だから、信じてほしい。どうして瑞希と、あの時と同じように特別な関係で居続けられなかったのか、私にも正直わからない。今はただ、懐かしいってことだけ想う。
私もそうだけど、瑞希はあんまりインスタも更新しないから、あなたが今どこで何をしてるのかわからない。元気でいるのかどうかも。わからないけど、結婚式の時じゃなくても別のいつかでも、また会えたらいいなって思ってる。瑞希が同じように思ってくれるかはわからないけど。
もうすぐ誕生日だね。少し早いけど、おめでとう。
よかったら返信ください。待ってます。
でも、もし嫌な気持ちになったら、その時は返事しなくてもいいからね。
私はその文章をしばらくの間、何度も何度も繰り返し、頭から最後まで読み返していた。そしてようやくスマートフォンの画面から目を離し、深く静かに息を吐いた。怒りとか、落胆とか、恨みだとか、そういう昏い感情は一粒たりとも浮かんでこなかった。代わりに、透明に光り煌めくような、奥深い緑の山岳の中から湧き出てくるような、冷たく澄んだ水が自分の胸と胎の中を巡り巡るようだった。
その水が一滴、眼からつぅと流れたのがわかった。悲しいのかどうかわからない。悲しい、とは少し違うような気もする。それはどちらかと言えば、翠がメッセージに書いてくれた「懐かしい」という言葉のほうが合っているように思えた。
それから三日ほどかけて、私は何度も消したり直したりしながら返事の文章を書いた。今はワーキングホリデーでニースという南仏の海が見える街に滞在していること。カフェで働いていて、友達も何人かできたということ。それから、あなたの結婚と妊娠を心から祝福しているということ。今年の九月には帰国して日本で再就職するつもりなので、結婚式にはきっと出席できるはずだし、是非行きたいということ。私もあの頃、翠のことが大好きで、心から愛していて、とても幸せだったということ。それから、私の誕生日を覚えていてくれて、祝ってくれてありがとう、と。
私は記憶の中の翠に色々なドレスを着せ、彼女が幸福そうに微笑んでいるところを想像した。何色のドレスが良いだろう、やはり白を選ぶのだろうか。でも若葉や新緑のような緑色でも似合うだろう。きっととても美しくて、その姿を目にした時にも、やっぱり私は泣いてしまうのだろう。
夕方の早い時間にオディールの家へモニクとマキと三人で訪れ、料理に取り掛かった。私たちが到着した頃にはオディールはすでに何時間もかけて牛肉を赤ワインで煮込んでくれていた。鶏肉のフリカッセ、ほうれん草や茸のキッシュ、サラダ・ニソワーズ、ジャガイモのポタージュ、たくさんの種類のカナッペ、ガトー・オ・ショコラ、とにかく様々な料理を手分けして作った。
料理しながら、オディールも一緒になって、私たちは色々な話をした。モニクはもうすぐカフェの仕事を辞め、来月にはパリに行くのだと言う。プロの女優を目指すために、パリのほうがより多くのチャンスが得られるからと。もちろん寂しくはあったが、私もマキも、そして初対面であるオディールも、彼女の新しい挑戦を応援した。
「あなたがいつか、主演として大きな舞台に立っているところを見てみたいな」
「その時にはミジュは日本に帰っちゃってるんじゃない?」
「また飛行機に乗って来るよ。あなたの晴れ舞台を見るためならね」
作業には結構な時間が掛かって、やっと概ね済んできた頃にメイがシャンパンを抱えてやって来た。彼女のフランス語は、十一月に私と共同生活を始めた頃に比べて随分と上達していて、オディールやマキやモニクとも問題なく会話をすることができた。彼女も、この春に語学学校で認定証を受け取ってパリの映画学校に編入する予定なのだと言う。メイが映画監督を目指しているという話を聞いたモニクは、「いつかあなたの映画に出演させてくれない?」と朗らかに言った。
「もちろん。でも、わたしが実際に自分の映画を撮れるまでにどれくらい時間が掛かるかわかりませんよ」
「問題ないわ。いつまででも待つよ。だって私、一生かけて女優をやるつもりなんだもん」
「きっとあなたを撮れば、ジュリエット・ビノシュのような美しい映像が撮れるでしょうね」
そのあと、アティーファとサーディクが揃ってやって来た。アティーファは家に入った途端に「良い匂い!」と叫び、さらに出来上がった料理を見ると再び歓声を上げた。二人はホブスというモロッコ流に焼いたパンと、ザルークという料理を持って来てくれ、これはニンニクやハーブをたくさん使ったナスとトマトのホットサラダなのだと説明してくれた。それから立て続けにカフェの同僚であるルイとクロエ、マキの友人のダニエル、モニクの友人のニコラが来て、オディールの広い家はあっという間に人でいっぱいになった。庭に続く硝子戸を開け放ち、春の夜の温い微風を部屋に通した。庭は咲き始めた花々でいっぱいだった。
オディールの家には古い蓄音機があり、それで彼女の好きなクラシックのレコードを流した。私たちは皆シャンパンで乾杯をし、誰もが口々に、今日初めて会ったダニエルやニコラも同様に「ミジュ、ボナニヴェルセール!」と言ってくれた。今日は、三月十一日ちょうどだった。
乾杯をしてから一時間ほど経った頃にアンヌが店で残ったタルトを持ってやって来た。食べ切れないのではないかというほど作った料理たちは、この人数の前ではみるみるうちに無くなっていった。私たちはシャンパンやワインのグラスを片手に音楽に合わせて踊り、途中でマキが持って来たセリーヌ・ディオンのレコードも掛けてみんなで歌った。
「ところでミジュ、あんた日本に帰ったら何の仕事をするのか考えてるのかい?」
「おいおいアンヌ、こんな楽しい日に労働の話なんてするもんじゃないよ」
「そうは言っても大事なことじゃない。前はフランスワインの輸入の仕事をしてたんでしょ? 次もフランスに関わる仕事をしてくれるんだろうね? そうじゃなきゃあ、こんなにフランス語が上手に話せるようになった意味が無いじゃないの」
「あら、意味の無いことなんて人生に存在しないわよ」
私は少し笑いながら、「そうですね、何ができるかはまだわからないけど、フランス語を使う仕事ができたらいいとは思ってますよ」と当たり障りの無い答えを口にした。
「映画や文学に関わる仕事はどう?」
「それもいいね」
「とにかく、なんだっていいさ。ミズキが幸せに過ごせるなら」
「それって、『セ・ラ・ヴィ』ってこと?」
「セ・ラ・ヴィ!」
酒が入って数割増し陽気になったサーディクが、そう叫んでまたグラスを掲げた。私たちは同じ言葉を叫んでまたグラスを合わせた。春の夢のような夜だと思った。
結局フェットは深夜まで続いて、帰る頃にはみんなすっかり酔っ払っていた。翌朝ベッドの中でほんの少しだけアルコールが残って重たい頭を持ち上げ、ずっと碌に見てもいなかったスマートフォンを見ると、私用のフリーアドレスに一通のメールが届いていた。差出人は、「坂井碧」と表示されていた。フランスに来てからはこの国のSIMを使っているので、日本にいた頃の電話番号では繋がらない。碧とメールで連絡したことはこれまで無かったけれど、このアドレスは退職する時に全社員に宛てた挨拶メールの末尾に儀礼的に記載しておいたのだった。メールには、誕生日おめでとうという言葉、それから「また会いたい」「話がしたい」ということが書かれていた。
早朝だった。日本はもう夜の深い頃だけれど、彼女はまだ起きているはずだと思った。私はアプリのブロックリストから碧の名前を探し、ブロック状態を解除した。そして、電話マークの発信をタップした。
コール音は何度ほど続いただろうか。彼女はすぐには出なかった。突然では無理か、と半ば諦めた頃にフッ、とそれが止み、通話中の画面に切り替わった。
「……瑞希?」
最後に話をしたのはそれほど昔のことではないはずなのに、ひどく懐かしく響く声が聞こえた。さあ、何を言おう、と私は起きたばかりでぼんやりしそうになる頭を回した。私は今、彼女に何を伝えればいいのだろう。
あのね、碧、
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