酒で薬を呑むな

 二階堂のお湯割りをあと少しで飲み干す頃に着信音が鳴ったので、そのままカウンター向こうの店主に「ちょっと」と身振りで一瞬ことわって店の外に出てから応答マークをタップすると、開口一番に自嘲めいた声で「離婚届まっぷたつに破られたわ~」と梨花が言った。

「まあ、別にいんだけどね。こんなこともあろうかと思って予備でもう一枚貰っといたから」

「それは賢い」

「でしょお」

 私の大学時代の友人である梨花が結婚して約三年になる夫に離婚を切り出してから、もう二ヶ月ほど経っただろうか。相手方は「絶対に別れたくない。もう一度話し合えばやり直せる」「離婚届にはサインしない」と主張し、毎日のように怒鳴り合いの喧嘩が続いて一ヶ月半ほど。耐えかねた彼女が夫とふたりで暮らしていたマンションを一方的に出て引っ越しをしたのがだいたい二週間前。破られた、ということはわざわざ彼のところまで出向いて直接サインとハンコを要求したのだろうか。

「なんかもう、疲れてきちゃったな」

「そりゃそうだよ」

「日に日によくわかんなくなってくる。これでよかったのかなぁ、って」

「これでって、別れる、ってことが?」

「そう。もう面倒すぎて。全部元に戻しちゃえば、何も考えなくてよくなるのかなぁ、なんて」

 何と言葉を紡げばいいのか判らなくなって、私は居酒屋の前で立ち竦んだまま黙り込んだ。吐き出した音の無い息は、唇の前で白く結露した。そんなことない、そんなわけないって本当は叫びたかった。だってそれは、貴女ひとり我慢し続けるってことでしょう。あの男が、てめえの我儘で貴女を縛り続けるということでしょう。あの男の為に貴女が犠牲になるなんて、そんなの許せない。

 でも貴女が本当は、心の底から彼を憎んでいるわけではないことは解っている。貴女はそういう子だ。ずっと前からそうだった。たくさんの男を愛したけれど、その誰ひとりとして忘れてはいないこと。ひとりひとりを全身全霊で愛して、それでも傷付いて涙が涸れるほど泣いてぼろぼろになって、別れてもその思い出を、データを消去しないまますべてそっと残してあること。女は上書き保存で男は名前を付けて保存なんてそんな主語のデカい言葉遊びなんか、ファッキン・クソッタレだ。

「……まあとりあえず、区の相談センター? 法テラス? みたいなとこに行ってみる」

「とにかく早く調停持ち込むなり何なり、第三者機関に入ってもらったほうがいいよ。多少お金は掛かるだろうけど。でも、ふたりで話して解決するってのがもう無理じゃん。まず向こうの精神状態がフツーじゃないし。どう考えても」

「やっぱそう思う?」梨花は乾いた声でちょっと笑った。

「うん。シンプルに怖い。LINE全部魚拓撮ってモラハラって主張してもいいレベル」

「やっぱそっか~。うん、ありがと。ごめんね、夜遅くに。じゃね」

「うん、また今度」

「おやすみぃ」

 通話を切って木の扉を押し開け店内に戻ると、もわっとするおでんやら鍋物の熱気に一瞬くらりとしそうになった。二軒目とは言え、焼酎一杯くらいじゃまだ酔わない。少々カラダも冷えたし。

「すみません、二階堂のお湯割りもうひとつ」

「はいよ。お姉さん、この辺の方ですか?」

「いえ、全然。家は吉祥寺のほうです。友達がこの辺に住んでて」

「ああ、それで遊びに来てるみたいな感じっすか?」

「そんな感じです」

「吉祥寺も多そうですけど、ここらへんも良い飲み屋多いんですよね。ウチも負けないですけど」

 面白そうなお店多いですよね、と恰幅の良い中年の店主に応えて軽い世間話をする。この店に来たのは二回目だ。前回は店主とはあまり話をしなかったが、一週間前だったので彼も私の顔を覚えていたらしい。

「このお店、常連さんとか多そうですよね」

「半分くらいはそんな感じですねぇ。近くに住んでる方が割と来てくれる感じで。お姉さんみたいなキレイな若い女性がお一人でいらっしゃるのは珍しいっすね」

「わぁ、お上手」

 カウンター席が七つほどある奥に、二人か三人くらい着けそうな小さなテーブルがあるだけのごく小さな店だ。そのテーブルには二人組、カウンターの反対の端のほうにも一人男性が座っている。まだ終電はあるから、もう少し大丈夫。いくらヤマを張ったって確率とタイミングの問題だから、結局は運に頼るしかない。

 梨花が結婚して一年ほどは、インスタの親しい友達ストーリーズで幸せそうな写真や動画をたくさん見た。安心して帰れる家があるって嬉しい、とあの頃彼女は言った。

 あたしは幸せな家庭なんて全然知らないし、自分にそんなの無理なのかなってずっと思ってたけど、こんなことってあるんだね。数年前のあたしに教えてあげたいな。

 梨花のストーリーズには、新居に飾った可愛い雑貨やキャラクターの小さなフィギュアやサボテンの写真が上がった。お気に入りのモノたちに囲まれて暮らすこと。最低限の身の回りの物だけバッグに詰めて、いつでも止まり木の住処を飛び出せるよう、男の家を転々としたりシェアハウスの一部屋を間借りしたりして暮らしていた梨花にとって、それは彼女の幸福の象徴のように見えた。あれらのうちどれくらいを持って出られたのだろうか。あの子の大好きなユーミンのレコードは?

 雰囲気が変わったのは、梨花の夫が鬱病になってからだった。正確には鬱病かどうかも判らない。双極性障害かもしれないし統合失調症かもしれない。何しろ、精神科には行きたくないと彼が言い張って一度も受診していないそうだから。きちんと医者の処方薬を飲んでくれと説得する梨花に耳を貸さず、海外のSSRIだか何だかそれらしいものをネットで直輸入して、会社を辞めてフリーランスのエージェントに登録して自宅で仕事をしてどうにか収入を保たせ、それでも家に独りにしておくと不安定になって泣いたり怒ったりするというから梨花は毎日なるべく仕事が終わるとすぐに退社して急いで帰って、食欲が無いと酒ばかり飲む彼に食べられそうな食事を作っていた。

 かららん、とドアのベルが鳴って冷気が侵入してきた。ゆっくり振り向くと、私と同じか少し上くらいの歳の頃の男が慣れた様子で入ってきて私の後ろを通り、カウンター席の中ほどに腰掛けた。

「いらっしゃい。何にする? ビール?」

「や、もう今日は黒霧。ストレートで」

「おお、いきなり行くねぇ。何、二軒目?」

「違うっす。でももうなんか、飲まねえとやってらんねぇってゆうか」

「亮太くん、最近ずっとそれじゃん。彼女、やっぱ帰って来なさそうなの?」

「もー無理っすよ。つか今日一瞬来たんすけど、やっぱ今更帰って来られても腹立つだけだし、マジで顔も見たくねぇわ」

「やっぱ難しいか~。でもあれでしょ、元々そういう子なんでしょ?」

「えー、お兄さん、彼女に出て行かれちゃったんですか?」

 頬杖を突き、わざと少し高めの声で左側に向かって声を掛けた。大丈夫、何気ない風に見えるはず。こういうタイプの店なら、たとえ初対面でも横の男に声を掛けたって変には思われない。頭はまだ冴えている。

「そうなんすよ。彼女ってか、嫁なんすけど」

「そうなんだぁ。結婚してどれくらいなんですか?」

「三年くらいっすかね。ちょっと前に急に別れたいって言い出して、今まで俺ら上手くやってたじゃん、意味わかんねぇって、ずーっと喧嘩。でも絶対、新しい男出来たんすよ。そういう女なの、あいつは」

 その男は、つまみのひとつも食べずに黒霧島をあっという間に飲み干してお代わりを頼んだ。店主が注ぐ黒霧島の瓶は男のキープボトルらしく、よく見れば白いペンで「りょうた」と書いてあった。

「まあ、だって、元々結構遊んでる感じの子だったんだもんね?」

「そうっすよ。セフレとかもいたし。だから結婚する時に、前の人らとはもう連絡取らないでって言ったの、俺。でも油断も隙も無いっすよね、そういう女は」

「えー、でもそうまでして結婚したいくらい好きだったってことですか?」

「そりゃそうっすよ。じゃなきゃそんなリスク背負って結婚しないって。最初は彼女も真剣に約束してるように見えたしさ、だから俺も信用して、ローン組んでマンションも買って。なのにもう離婚したいってマジどうなってんの」

「マンション買っちゃったのキツいねぇ」

「でしょ?」

 そこから亮太の愚痴は止まらず、水も飲まずに芋焼酎を呷り続け、みるみるうちに酩酊していった。店主はいつものことだという風で動じもせず、適当な相槌や合いの手を入れながら他の客の相手をしたり料理や仕込み作業をしたり飲み物を作ったりしていた。私も彼の話を親身に聴く顔をしながら漬物をつまみに二階堂をちびちび舐めて、それでも脳内はどんどん冷静になっていくのを感じていた。まだだ。タイミングが肝心なのだ。まだもう少し引っ張れる。

 店長さん、あなたに罪は無いけどごめんね。

 でもここからが本番なんだ。

「でもさぁ、お兄さんのほうにも原因あったんじゃないんですか?」

 あくまで他人事の距離感を保ち、穏やかに無邪気に、でもそうっと刺すように。それまで聞き役に徹していた私が唐突にその台詞を吐いた瞬間、亮太の赤ら顔がやや不機嫌な様相になった。

「いや、そりゃまあ俺にも悪いところはあったと思いますよ。向こうの言い分も多少納得できるところはあるってゆうか。でも価値観とか色々違うとこあるし、そこは話し合って擦り合わせるのが夫婦ってもんじゃないすか」

「その擦り合わせる、ってお兄さんの価値観を向こうに押し付けて呑み込ませることの言い換えじゃないですよね?」

 一瞬、亮太はすぅっと表情というものが抜け落ちたような顔付きになった。半径二メートル以内の空気が凍り付き、店主が静かに驚きと困惑の目を私へ向けてきたのが見なくても判った。

「まずさぁ、さっきから聞いててもそうだけど、離婚したいのかしたくないのか結局どっちなのか意味不明なんですよね。言ってることブレブレじゃないですか? 愛してるから別れたくない戻って来てほしいって言ってみたり、彼女が悪い、もう信用できないって言ってみたり、俺の人生おしまいだとか嘆いてみたり、金払えとか言ってみたり、とにかく滅茶苦茶じゃん。そもそもその、ちゃんと話し合えば解り合えるとかやり直せるとか全然根拠の無いこと主張してる時点でもう彼女とあなたで見てるフェーズが全然違うんですよね。結局あなたが離婚したくないって騒いで、自分の恨みつらみを彼女にぶつけてばっかだから面倒なことになってるんでしょ。鬱病だかなんだか知らないけど、あなたの都合で一年? それ以上? 彼女に苦労も心配も迷惑もかけてきて、その支えに対する感謝も、今後パートナーとしてやっていく意思も努力も感じられないから彼女は離婚したいって言ってるわけじゃん。少しは自分の非を省みられないんですかね。全部彼女に責任転嫁して俺はなんにも悪くないみたいな顔してんるのが凄いですよね。てか、どうせあなたエンジニアの端くれだから自分は論理的で解決思考ですみたいなこと思ってるんだろうけど、さっきからずっと破綻してるからね。なんだっけ、解決金? 手切れ金? か何か知らないけどさ、それって要するにローン云々の話が大元なんだろうけど、離婚時にローン問題をどうにかしたいんだったらまずそれを組むことになった経緯とか、名義がどっちになってんのか、支払い分配がどうなってて現在のそれぞれの収入を鑑みて今後はどうすんのかってのを専門家入れて話すしかないでしょ。まあ普通に名義そっちだし、大部分そっち持ちだったわけだし、彼女は資産として何も受け取る気が無く身ひとつで出ていきますって言ってるだけだから、純粋に金の話になったらどっちかと言うとそっちが不利そうですけどね。いやー、それにしてもここまで駄々捏ねて縺れさせといて勝手にあなたが決めた解決金? とやらで手を打ってやるよって何様のつもりって感じでウケる。さっき、彼女の行動が俺の生活を巻き込んでナントカって言ってたけど、あなたがそれ言う? あなたが彼女の生活を巻き込みまくった約一年のこともう忘れたの? 都合の良い頭脳ですねぇ。自分のことしか考えられないみたいだし、もう少しこれからの人生反省して生きたほうがいいんじゃないですか? ああ、あと精神科も行ったほうがいいですよ。明らかに情緒不安定だし、少なくとも見る限りアル中かその一歩手前ではありそうですから」ぬるくなった麦焼酎の、最後の一口を飲み干した。「それと、彼女はあなたのリカちゃん人形じゃないですよ」

 反射的に目を閉じた。ぱしゃ、と軽い水音とともに顔にさらりとした、どちらかと言うと冷たい液体が掛かって、直後に頭に浮かんだのは「くっせぇ」という感想だった。入れたてのお湯割りとかじゃなくてよかった、と思う。店主の「ちょ、おい、亮太くん!」という慌てた声と同時に亮太にニットの胸倉を掴まれたけれど、カウンターの奥側に居た男性客に亮太が羽交い絞めにされて、私はあっさり解放された。財布から五千円札を出してカウンターに叩きつけ、あくまで醒めた声音で宣言した。まるで他人が喋っているみたいだった。

「これ、暴行未遂ですよね。この人、出禁にしてください。私ももう来ません。ご馳走様でした」

 背後から幾つかの怒号が聞こえたが全部無視してコートを着て鞄を持ち、一度も振り向かずに店を出た。駅のトイレで、しっかりファンデーションを塗ってばっちり決めたメイクの上から冷たい水で乱暴に顔を洗った。鏡を見るとアイシャドウとアイライナーが溶けてマスカラもダマになって酷い顔だったが、もうどうでもいい。目的は終えたのだから、あとは帰るだけだ。

 自宅マンションの部屋に帰り、残った化粧をきちんと落としてシャワーを浴び、スキンケアをして寝巻きのスウェットに着替えた。ベッド横の棚には、薬をまとめて入れてある百均で買ったケースが置いてある。その中からいつもの薬の袋を取り出して雑にテーブルの上にぶちまけた。その時、薬局でいつも貰う薬の説明書を四つ折りにした紙が錠剤のシートと一緒に落ちてきた。それを指でつまんで拾い上げた。

 これ、邪魔なんだよな。何年も同じ薬飲んでるんだから飲み方なんて解ってるし、老人じゃないんだから間違えたりもしないのに、毎回この紙をくれる。近所の薬局の店名と私の名前がご丁寧に印刷されているものだから、私はそれを紙吹雪のように細かく千切ってゴミ箱に捨てた。

 それから、精神科で処方されたSSRIをシートから一錠だけ取り出し、コップにジムビームを注いでその淡い黄金色の液体で一気に飲み下した。

南方小麦牧場

Minamigata Komugi Farm